ハンセン病とは
国立感染症研究所よりハンセン病(Leprosy)とは、1873年にノルウェーのハンセンが発見したらい菌によって、主に皮膚や末梢神経が侵される慢性感染症のひとつである。
この病気は、嘗て、らいあるいはらい病といわれ、不治の病と考えられていた一方、顔面や手足などの後遺症がときには目立つことから、恐ろしい伝染病のように受け止められてきた。
しかし、この菌の毒力はごく弱く、感染しても発病することはきわめてまれであり、伝染力は弱い。
1943年のプロミンに始まる化学療法剤の効果によって、確実に治癒するようになり現在では、いくつかの薬剤を組み合わせた多剤併用療法(Multi Drug Therapy, 略してMDT)が広く行われている。
後遺症
らい菌は体内の低温部を好むため、皮膚に結節・斑紋ができ、その部分に知覚麻痺がある。
神経症状として、顔面神経が侵されることによって、主に目を閉じることができなかったり、口が引きつるなどの症状が起こる。目が見えにくいなどの障害を持っていると、ちょっとした不注意で火傷や怪我をしてしまう恐れがあることや、セルフケアを独力で行うことが難しくなるため、患者には様々な援助が必要である。
手の変形、硬縮があり、自分自身で清潔を保つことが難しい。そのため、頭部の清潔を保つと同時に、定期的に耳垢の除去を行うことが望ましい。
個人差があるが、手指が曲がったまま硬直していることや、指がないことがある、これらはハンセン病の後遺症の皮膚症状として起こる。また末梢神経麻痺という神経症状もあり、指先には知覚がないこともある。そのため、日ごろからの爪きり、皮膚の保湿を行い、傷を作らないように努めるほか、火を用いるときは、火傷をしないように注意をうながすことが必要である。
足にタコや傷による痛みがあると自然にかばって歩くことがある。しかし、ハンセン病の神経障害により気が付かないうちに患部に負荷をかけたり、患部を放置したりしてしまい、潰瘍に発展する場合がある。乾燥や亀裂は自律神経障害によることが多く、冬場の乾燥した状況はいっそう高度である。また、乾燥から出血してしまうと感染症を併発するため危険で、悪化すると足壊疽へとつながる。壊疽のため切断を余儀なくされることも多い。
日本でのハンセン病
日本では一般的に、外見上の特徴や、伝統的な穢れ思想を背景に持つ中世以来当時の仏教観(因果応報思想)により、神仏により断罪された者の罹る病とされ、患者は差別、偏見の対象となった。
そのような状態は明治の初めまで続いた。聖徳太子が撰じた三経義疏のひとつに白癩(ハンセン病)の記述が、日本で最古の記録であると言われている。
明治になり鎖国が解けると、西欧の文化により、ハンセン病に関する新しい知識が入ってきた。ハンセン病が感染症であり、感染力が弱いという知識も入ってきたにも関わらず、治療方針は改められることはなく、旧来からの差別に加え、今度は伝染に対する恐怖感を煽り、患者に対する差別、偏見は激しさを増し、その差別は患者家族にまで及ぶものとなった。
20世紀初頭、日本は日清戦争、日露戦争に勝利し、文明国の仲間入りをしようと努力している段階であった。政府はハンセン病患者を文明後進性を示す社会的存在とみなし、立て続けに啓発的な法律を制定していった。
1970年には 「ライ予防ニ関スル件」、1931年には「癩予防法」を制定し、国民にハンセン病に関する間違った知識を植え込んだ。その法律成立によって、療養所に強制的に隔離するという政策がとられたが、療養所とは名ばかりのものであり、その実態は絶滅収容所と言っても過言ではないものであった。国民は「ハンセン病はおそろしい病だ」という間違った知識を持っていたので、国民レベルでのハンセン病患者の密告、収容が続いた。
第二次世界大戦終結後、日本政府は日本国憲法を施行し、基本的人権、生活権、社会権等々を保障した。しかし、憲法施行後間もなく優性保護法が成立し、療養所内での強制的な断種、堕胎が合法化された。療養所内では、所長の懲戒検束権の乱用、逃走防止の壁、患者の監禁室、強制労働など、明らかに憲法に反することが横行していた。
それを受け、 1951年、現状を改善すべく出来たのがハンセン病患者協議会(全患協)であった。それ以来、全患協を中心に入所者の処遇改善を求め、癩予防法の改正を政府に要求していった。しかし政府は入所者の正当な要求を聞き入れることはなく、さらに厚生省は「らい予防法」案を国会に提出した。内容は従来の「癩予防法」を踏襲したもので、治癒後の退所規定はなかった。強制入所、就業禁止、通告業務、汚染場所の消毒義務、外出禁止、所長の秩序規定―漢字をひらがなに変えただけの法律が国会で成立した。
らい予防法」成立後、全患協は法の改正、廃止を求めて闘いを続けた。国はWHOなどの世界中の批判を尻目に、予防法の精神を頑なに維持していった。この状態が約50年に渡って継続した。その間全患協は毎年、「らい予防法」改正、廃止の要求を国に出していった。
それが突如として動き出したのが、 1994年、村山政権のときだった。H I V裁判の和解、水俣病裁判の和解。それに続き、「らい予防法」の廃止へと向かった。1996年1月、菅厚生省大臣の謝罪があり、3月、「らい予防法の廃止に関する法律」が国会において成立した。2001年には元患者や遺族に補償金が支払われることとなり、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が制定された。現在では一般の病院や診療所で健康保険で治療できるが、今なお誤解や偏見は残っている。
参考文献:
武村淳「ハンセン病―人生被害―人間回復への歩み」



ハンセン病とは
中国のハンセン病事情


