一年ぶりの里帰り~HEKU~
親愛的夏美
お前はHEKU村はお前の第二の故郷だと言った。お前の故郷である以上、きっと帰って来てくれ。俺は、ずっとここで待ってる、お前の帰りを。もう一度HEKUの懐に帰っておいで。俺は絶対に自分の体を大事にする。何故なら、お前に心配をかけたくないから。それに、体の調子が良ければお前に会える。手紙を書いてくれてうれしかった。俺のことを忘れてないとわかった。お前の手紙は俺を幸せで健康にしてくれる。もう一度、感謝の言葉を。ありがとう。仕事順調、毎日を楽しんで。
お前の吴おじさんより
2008年12月30日、中部国際空港から朝一番の飛行機に乗った。飛行機の中で村人からの手紙を読み返した。4月に会社勤めを始めてから休暇がうまくとれず、夏のキャンプに参加でなかった代わりに、村人へ手紙を書いてキャンパーに託した。全員が返事をくれた。約1年ぶりの中国、そしてHEKU村 。4日間の訪中で、その内2日は移動。我ながら、無謀なスケジュールだとは思ったけれど、一目でいいから村のみんなに会いたかった。
2007年夏、HEKU村との出逢い
私が初めてHEKU村に訪れたのは2007年の夏キャンプ。初めてのワークキャンプだった。夏の熱い日差しの下でみんなで歌を歌って、スコップを持って貯水池 を掘ったり、セメントをバケツリレーで運んだ。村の人とゆっくり会話した記憶はなかった。それでも、あの山道を松葉杖 を手に見送ってくれたじいちゃん。目に涙をいっぱいためながら見送ってくれた村の人たちに心を打たれた。もっともっと、話をしたかった。一緒の時間を過ごしたかった。村人の泣き顔を見てそう思った。
村人の優しさに触れて
そんな想いを胸に、その秋に下見のため美由紀 と再訪した。「お前を覚えてるよ」「日本からまた来たの?」と想像をはるかに超えて歓迎してくれた村人の優しさにパワーをもらった。そして、2008年2月、JIA の設立後初の、日本人主催のワークキャンプを作った。ワークが軽かった分、私たちはゆっくりと村人と過ごす時間を持てた。毎朝バケツを担いで村人へ水を運ぶキャンパー や、農作業を手伝うキャンパー。村の丘で横笛を吹くキャンパー。夜は村人と焚き火を囲って話をした。キャンパーみんなが思い思いに村人と一緒に過ごした。昼はワークをさぼって隆(ロン)婆(ポ)と昼寝をした。涙を流しながらつらかった過去を話してくれた梅花(メイファー)ばあちゃん。「ありがとう」という日本語を覚えてくれた隆伯(ロンボ)。私たちの生活をずっと支えてくれた小田哥(シャオティング)。後遺症で手足が不自由なのにワークを手伝ってくれた吴大叔(ウーダシュウ)。でも、彼は誰より木を切るのが上手かった。「中国語が話せないくせに何でいつも来るの?」と言いつつ、いつも笑顔で椅子を勧めてくれた。キャンプファイヤーがしたいと言ったら、財産である薪を分けてくれた村人たち。私たちの作ったフォトボード を両手で抱きながら隆伯(ロンボ)は言った。
「あなたたちが帰るとこの村はまた静かになって寂しくなる。でも、このフォトボードを見て、あなたたちを思い出すことが出来る。そして、思い出してまた寂しくなるね。ありがとう。本当にありがとう。再見!また会いましょう。」「ありがとう」は覚えたての日本語だった。真冬のHEKU村は暖かかった。
再訪の決断
あの冬、私たちがワークキャンプをすると知って、駆けつけてくれた中国人キャンパーがいた。私たちの大好きな「チチ」。いつも私たちに優しく接してくれた、強くて頼もしい男の子。彼のふくよかな体系と眼鏡といういかにもなルックスと、その優しくて面倒見のいい性格から、私たちは彼に「父~チチ~」とニックネームをつけた。
彼も私と同様、あのキャンプの後就職をし、HEKU村のある湖南省から遠く離れた広東省で働いている。チチに私が年末中国へ行くことを知らせると「HEKUへ一緒に行こうか。」と誘ってくれた。最初は正直躊躇った。だって、4日しかない旅行で片道16時間の列車と、3時間のバス、そして1時間の徒歩の道のりはとても無理があると思ったから。それに、そのバスは一日にたったの一本しか運行してなくて、下手をすれば、村に一泊できるか出来ないかのスケジュールになる。最初はただJIAのオフィスのある広州で、キャンパー達と遊んで過ごすつもりでいた。
その迷いを断ち切ってくれたのが明くんだった。明くんこと、森下明は2008年夏のキャンプの総リーダーを務め、11月末に次のキャンプの下見のため中国へ飛んだ。彼はHEKUではなく、広西省チワン族自治区南寧の新しい村でのキャンプをするため下見に行った。そのスケジュールの中で、時間を作って湖南省まで行き、HEKUを再訪した。「HEKU村へ行って、みんなに会ってパワーをもらった。」そう話し、次のキャンプの準備に積極的に取り組む明くんの姿を見てうらやましくなった。そして、彼は一通りHEKU訪問での話をしてくれて、「村人との話の中で、“シャーメイ”って名前よく出たよ。」と言ってくれた。“シャーメイ”は私の名前の中国語読み。「え?村行かんの?俺、シャーメイが正月来るって村人に言ってもたし!」それを聞いて、私はHEKU村行きを決めた。
小学校のある村へ
広州JIAバックアップチーム(BUT) のメンバーのMingjunと広州を出発し、湖南省吉首駅に着いた。そこでチチと、吉首大学の学生で湖南省のリーダーであるPanPeiが出迎えてくれた。そこで軽く昼食を食べて、タクシーでガンズーピンという村へ向かった。ガンズーピンはHEKU村からバスで約3時間と徒歩で30分程度はなれた村で、HEKU村の田夫妻の子供仁平とその姉、仁珍、仁琴 が通う小学校がある。両親がハンセン病回復者という理由でHEKUの小学校入学を拒否された幼い兄弟が平日は学校の寮で、週末は兄弟だけで田伯の実家(といっても最近まで電気もなかった質素な家があるだけ)で暮らしている。チチをはじめとする中国人キャンパーは昨年のワークキャンプでその家に電気を通した。タクシーの運転手は「ボランティアで小学校へ行くんだ」と途中の料金所で説明し、通行料を無料にしてもらった。学校の近くに着くと、タクシーの窓から仁平、仁珍、仁琴の姿を見つけた。窓を開けて手を振って、すぐにタクシーを止めてもらって降りると、仁平は相変わらず照れくさそうに笑う。仁琴は「姐姐(ジェジェ)」と笑いかけて荷物を持ってくれた。仁珍の先導で学校へ行った。その日は生憎突然学校が早く終わってしまったという。だから、校長先生には会えないと話した。
小学校ワークキャンプ
2008年2月に、私たちはHEKU村での滞在後この小学校へ来て生徒たちと遊んだ。仁平たちの学校生活に何か楽しい思い出を作りたいと思って企画した。そこでは、キャンパーの有志が体を張ってレンジャーものの劇をして大人気になり、その後、いくつかのグループに分かれて、バスケをしたり、折り紙をして遊んだ。その後、校長先生は私たちを校長室らしき場所に連れてってくれて、何度も感謝の言葉を述べた。「こんな田舎の小学校にはるばる日本の大学生が来てくれて、生徒たちも本当に喜んでいた。また、HEKUへ訪れるなら、ぜひこの学校にも来てほしい。」教育リーダー翔太 の頑張りのおかげで、私たちはこの企画に“大成功”の文字を刻むことができた。
次の春休みにも、この小学校での活動の続編をしたいと計画している。このガンズーピンの小学校だけでなく、HEKUの小学校でも同じことが出来たらと思い、校長先生と打ち合わせをするつもりで来たのだが、残念ながら両方の学校が休みで打ち合わせはできなかった。しかし、仁珍・仁琴の担任の先生と話をすることが出来た。彼らは暖かく私たちの突然の訪問を迎えてくれ、職員室にあるこたつ(日本とは違って椅子のある高いテーブルに布団が掛かっていて、足元に炭が置いてある)を囲って話をした。
厳しい就学状況の中で
中学生の仁珍、仁琴の学校での態度はすこぶる良くて、学校で常に1番、2番の成績をとっているそうだ。私が仁珍に「Do you like school?」と尋ねると、「Yes!」と答えてくれた。仁平にMingjunの通訳で学校の成績を聞くと、彼はただ一言、「Passed」と(中国語で)答え、みんなの笑いをかった。先生が言うには、彼はまだ低学年だから成績についてあまり重点を置いて評価はしていないが、毎日寮や家で勉強する姉たちからいい影響を受けているということだった。その後、私たちは1時間ほど先生を交えて学校生活についてや、彼らが受けている奨学金について話した。仁珍は家が貧しいために一度学校を辞めている。それを知ったBUTのメンバーが彼女の学費支援を始め、今は学校に復学し熱心に勉強している。BUTのメンバーとの文通も欠かさないという。時々、学費支援を受ける学生がいるが、支援者との文通を疎かにして、支援が断ち切られたというケースがあるそうだ。こういった有志からの支援を受けている学生は稀で、小額だが国からの奨学金をもらい学校に通う生徒が小・中学校合わせて100名強いるという。額は半年で平均250元(約4000円)で、金額・人数はその年によって違う。生徒の成績や親の収入等が判断基準になる。彼らが高校に行くとしたら、ガンズーピンを出て他の土地へ行かなければならない。学費も中学校よりもずっと必要になる。大学に行ける生徒なんて、ここの学校では学年に一人いるかいないからしい。1%未満の確立になる。
2008年最後の夜
先生たちにお礼を言って学校を出て、約30分道のない道を歩いて彼らの家に着いた。道中、そこらに捨ててある大量のゴミ が気になった。家に着くと、仁珍、仁琴がすでに夕飯を用意してくれていた。乾燥した肉と野菜を香辛料を和えて炒めたものと、豆、豆腐と野菜の炒め物、白ご飯。仁珍はこれだけで足りるか心配していた。「こいつはよく食べるから」Mingjunが私を指して言う。仁珍は「知道!(知ってるよ)」と答えてみんな笑った。
食事の準備は姉妹がすべてやっている。妹の仁琴は火をおこし、そこで仁珍が調理する。ガスや水道はないのに、彼女たちは私に手伝う暇も与えない位、実に手際よく仕度した。仁珍が「今度、カレーライスの作り方、教えてね。」と言った。私は「いいよ、今度一緒に作ろっか。」と答えた。今日は12月31日。彼らの宿題を見たり、中国式の囲碁をして遊んだ。私たちは2009年を迎えた。
警察官になりたい
次の日の早朝、私たちは姉妹にお礼を言って、仁平と共に家を出た。仁平の手にはDVDが2つ。試験前なのに、何でそんなもの持ってるの?とからかわれながら、彼は「(HEKUの)家で見るんだよ」と大事そうにパッケージを眺めた。それは、俗にいう海賊版のDVDで、中国の至る所で購入できる。違法ではあるけれど、その安いDVDは仁平にとって大事なもので、パッケージはボロボロだった。
仁平は昨晩、学校の宿題で作文を書いていた。作文の中で彼は「警察官になりたい」と書いた。たくさん勉強して、偉い人になって、病気で働けないお父さんの代わりにたくさん働いて、家族を支えたい。と言った。
小さな懐中電灯
家を出ると、外はまだ6時台で真っ暗だった。懐中電灯を忘れた私の足元は真っ暗で、何も見えなかった。いかにも地元の少年らしく、この辺りの道を熟知している仁平を先頭に、その次にチチ、私、Mingjunという順番で歩いた。雪が残る地面は滑りやすく、ゆっくり進んでくれているにもかかわらず私は転びそうになった。すると、仁平がチチに何かを言って順番を代わった。チチが先頭で、仁平が私の前を歩く。そのまま少し歩いていると、私はさっきよりもずっと歩きやすくなったことに気づいた。仁平は小さな懐中電灯を持った手を後ろに向けて歩いている。彼は足元のおぼつかない私の足元を、さり気なく照らし続け、そして道順をチチに教えながら歩いた。その代わり、彼の足元は真っ暗だった。私の視界は、仁平の照らしてくれる小さな明かり以外、ほかには何も見えなかった。その光は、異様に明るく感じた。大きな水音が聞こえてきた。ダムか川だろう。得体の知れない大きな音はとても怖かった。そこを横切った。その間もずっと仁平の懐中電灯は私の足元を照らしていた。私は寝不足のためぼぉっとしているの頭では何も考えられず、ただただ仁平の灯してくれる明かりだけを無心で見つめ歩き続けた。そして、時々振り返って私の様子を気にしてくれる仁平に小さく「謝謝」と言った。彼は「シェンマ?(何?)」と聞き返した。私はもう一度、「謝謝」と彼の懐中電灯を指差して言った。「不要(どういたしまして)」とぶっきらぼうに答える仁平がすごく愛おしかった。
再会~村で過ごした正月~
町に出ると、しばらくバスが来るのを待った。到着したバスは、バスと言うよりトラックだった。何とかそのバスに乗り込み、HEKUへ向かった。車を降りて、市場で朝食を食べた後、いつもの道を行く。よく知っている道だった。辺りは明るみ始めて、町の様子がよく見えた。「帰ってきたぁ!!」と叫んだ。山道を30分くらい歩き、村が見えてきた。するとたくさんの犬たちと、村人が迎えに来てくれた。小田哥(シャオティング)は私を見て、「シャーメイ、来たの?!」と走りよってくれた。仁平のお母さんが今にも泣き出しそうな顔で、抱きしめてくれた。何度も頬をなでて、何か話しかけた。吴大叔(ウダーシュウ)は後遺症で少し短くなった手を振って家に呼んでくれた。隆伯(ロンボ)は少し驚いた顔をして、その後くしゃっと優しい笑顔になり、近づいて背中をさすってくれた。史(シ)おばちゃんも、梅花(メイファー)ばあちゃんも、みんないた。それから村人と正月で賑わった市場へ行って買い物をして、村に戻って夕飯の準備をして、肉がたくさんある食卓を囲った。「新年快楽!」と乾杯。「一緒に正月ができて、うれしいね。」と言った。昨夜はどんな風に、カウントダウンをしたか、とか、仕事はどんな感じかとか、とりとめのない話をした。10名近くの人間が、小さな食卓を囲って、お酒を飲んで、たくさん話した。小田哥(シャオティング)の長男、3歳のジーフイが突然「HappyBirthday」を歌い出した。去年のキャンプで小田哥の誕生日パーティーをした時に、みんなでそれを歌ったそうだ。それを、彼は覚えたらしい。そのすぐ横で仁平はMingjunにもらった英語のDVDを熱心に見て、数字とか単語をリピートしている。去年に比べてとても大きくなったジーフイの妹は、私のひざの上でカメラをいじって遊んでいる。家の中はすごく賑やかで、それは、正月に本当の親戚が集まった様な光景だった。
もう一度人生が持てるなら
食事を終えて、史大叔(シーダーシュウ)の所でさらにたくさんのお酒を飲まされたMingjunは酔っ払って先に寝てしまった。子供たちも部屋に戻って、静かになった。チチと4人で焚き火を囲いながら、尋ねた。「ねえ、田伯(ティエンボ)。今年の夢って何?」「夢?・・・無いよ」彼ははにかみながら少し考えた。「う~ん、今年は少しだけでも農作業を手伝える様になりたい。座ってばかりでなくて、野菜を作ったり、放牧したり。」「田伯(ティエンボ)、頭痛い?」「痛い。」「そっか…。良くならない?」「ずっと一緒。」彼は若いころから神経性の頭痛を抱えている。きちんとした検査をするお金もなく、検査をして原因がわかった所でその治療費は払えるはずもないから、ずっと鎮痛剤でその痛みを誤魔化し続けている。その鎮痛剤ですら、ろくに買うことが出来ず、よっぽどの痛みでなかったら我慢して、焚き火の傍でじっと座って暖をとって毎日を過ごしている。そんな父親に代わって、家族を支える長男の小田(シャオティェン)哥(グ)。小田哥にも「今年の夢」を聞いてみた。「自分のクラブを持つことだよ。」「クラブって?あの、ダンスクラブ?」「そうそう。爆音の音楽と綺麗なお酒があって、たくさんの人が集まって踊るところ。」「小田哥は踊るの?」「違うよ、そこを経営するのが夢なんだ。もし、もう一度人生が持てるなら叶えたい。」幼い2人の子供と、働き者の奥さん。元気な母と、働けない父親。そして10歳近く離れた末の弟と妹たち。彼が支えているのは血のつながった家族だけでない。村の手足の不自由なじいちゃんばあちゃんの身の回りの世話もしている。月に一週間ほど町でペンキ塗りのアルバイトをしているが、よその省で働くことは考えたこともないと言った。彼は私より2つだけ年上だった。彼の奥さんは私と同い年。今は吉首で一人でウエイトレスのアルバイトをして暮らしている。しっかり者の彼はすごく大人びて見えるけど、改めて聞いた彼の夢は、私の周りの友達の一人にはいそうな、25歳の若者らしい夢だった。
特別な夜
私たちが体を洗うために、お母さんがお湯を沸かしに行ってくれて、小田(シャオティエン)哥(グ)も家畜の部屋の戸締りをしに行った。小さくなってきた焚き火を見つめながら、少し沈黙が続いた。田(ティエン)伯(ボ)がその火を見ながら、もう遅いし明日も早起きだからこの火が消えたら寝ようか。と言った。田伯は頭痛のせいか、貧乏ゆすりが止まらない。村のほかの家族のことを田伯が話し出して、チチは拙い英語でそれを丁寧に訳してくれる。その姿を見て、田伯はチチに「日本語が上手なんだな」と言った。チチは「日本語じゃないよ、英語だよ。でも、お酒を飲んでるから、下手くそな英語が余計上手く話せない。」と言って笑っていた。寒くてお手洗いに行くため席を立った。帰ってくると、焚き火にまた新しい薪が加えられていた。田伯は照れた様な笑顔で「今日は特別だから。もっと話がしたいから、もう少しだけ夜更かしをしよう。」と言った。すごくすごく嬉しかった。田伯は、頭痛は変わらず痛いと言ったが、私には彼が昨年よりもずっと良くなっている様に見えた。前は頭痛でずっとしかめ面だったのに、今日は笑顔が絶えないし、よく話す。精神的にずっと回復している気がした。
小田哥が戻ってきて、チチが歌い始めた。みんなが聞き入って、すごくロマンチックな気分だった。チチが、夏美も何か歌ってと催促して、私は2007年夏のキャンプソング を歌った。サビの所で、チチも一緒に歌って、小田哥もハミングしていた。小田哥にも歌ってと言ったが、彼は照れて歌わなかった。
みんなまた帰ってしまうから
そろそろ寝ようか、と席を立った時、私は最後に質問した。
「この村でキャンプが行われるようになって、何か変わったことってある?」小田哥は笑って答えた。「没有!(何もないよ)」「みんなが来ると村の人はみんなとても嬉しくて、幸せだと思う。でも、みんなはまた帰ってしまう。するとまた寂しくなって、悲しくなる。今回みたいに、誰かが来ると聞くとその日が楽しみで仕方ない。明日がその日だったらいいのに、明日が…と思いながら毎日待っている。」私たちキャンパーはこの村に水道を通した。キッチンも作ったし、電気もいつでも使える様になった。それでも変わったことは何もないと答えた小田哥。彼の言葉から、村人が本当に求めているものに気づかされた気がした。
この村のインフラ設備はキャンプで少しずつ良くなってきている。でも、例えそれが私たちの住んでいる環境と同じくらい改善されても、キャンプを終わらせてはいけないと思う。私はもう学生ではなくて、頻繁にキャンプでここに来ることは出来ないかもしれない。それでも、仕事が落ち着いたら会いに来たい。でも、私一人が来たところで、この村に持ち込める活気はキャンプのそれとは比べ物にならず、静かなゆっくりとした時間を、村人と共に過ごすことしか出来ない。それでも、私はここに来たいと思う。それは、自分自身のためで、村人と私個人の付き合いのこと。それとは全く別に、ここでのキャンプを継続させたいと強く思った。私が参加できなかったとしても、村人の元気な姿が見たい。
ワークキャンプを始めてから、初めてって位自分が本当に無力だと痛感した。自分の大事な人たちのために、自分に出来ることは何か、いっぱい考えた。帰りの列車、飛行機の中でずっとそれを考え続けた。それでも、頭は全く働かず、ただ村人との会話をリフレインするばかりだった。
関西委員会 増本夏美
脚注
HEKU村:中国湖南省にあるハンセン病回復村。かつてハンセン病を患った人々が生活する外界から隔離された村。現在村には約15名が住んでいる。FIWC関西委員会はそこで2007年よりワークキャンプ活動を行っている。
村のインフラ整備は非常に悪く、水道がなかった。2007年夏から私達は水道を設置した。
村人の中にはハンセン病の後遺症がひどく、手足を失っていたり不自由だったりする。目の悪い人もいる。
美由紀:藤田美由紀。FIWC関西委員会委員長で、私の良きパートナー
JIA:2004年に設立された中国の現地NGOワークキャンプコーディネートセンター。中国語で「家」と書く。Joy In Actionの頭文字を充てる。
キャンパー:ワークキャンプに参加するボランティアのこと。
2008年冬、私が総リーダーを務めたキャンプで村人へ贈った手作りのフォトボード。そこには村人との写真を飾った。
バックアップチーム:JIAのOB有志で構成されているグループ。
仁平、仁珍、仁琴:HEKU村に住む田夫妻の子供達。過去に田夫妻は共にハンセン病を患っている。田家は7人兄弟がいて、仁平、仁珍、仁琴は末の子供達。中でも仁平は2007年夏のワークキャンプで一緒に生活し、私達にとって思い出深い。その時作成したショートムービー参照。
翔太:中野翔太。最年少のキャンパーだった。
大量のゴミ:吉首省は衛生環境が良い。政府の出すデータでも明らかにされている。
キャンプ中、みんなで歌うテーマソング。岡本真夜の「Tomorrow」だった。

